西洋哲学の伝統のみならず、当時最新の現象学の潮流とも対峙し、それらとは異なる論理で独自に思索した西田幾多郎と田辺元。絶対無、直観や経験、場所や時間といった主題群をめぐって二人の哲学者は何を共有し、どうすれ違ったのか。フッサール、ハイデガー、九鬼との関係も視野に収め、争点となった哲学的問題の数々を、固有の文脈のなかで丁寧に解きほぐす。全10章・補論3章の最新読解。
嶺 秀樹(ミネ ヒデキ)
嶺 秀樹 京都大学大学院文学研究科西洋哲学史専攻博士課程修了。テュービンゲン大学哲学博士。関西学院大学名誉教授。著著:『存在と無のはざまで──ハイデッガーと形而上学』『ハイデッガーと日本の哲学──和辻哲郎,九鬼周造,田辺元』『西田哲学と田辺哲学の対決──場所の論理と弁証法』(ミネルヴァ書房),共著:『世紀末は動く』(松籟社),『京都学派の遺産──生と死と環境』(晃洋書房),共訳書:『時間概念の歴史への序説 ハイデッガー全集 第20巻』(創文社)ほか。
※上記内容は本書刊行時のものです。はじめに
第一部 コンテクストの中の西田哲学
第一章 西田の場所の思想における叡智的なるもの
第一節 場所の思想における「叡智的なるもの」の位置づけ
(一)プラトンのイデア論
(二)西田の場所の概念
(三)一般者の自覚的体系
第二節 「叡智的なるもの」の基本性格
(一)西田の立場から見た種々の哲学
(二)ノエシス的限定の構造と行為的自己の立場から見たイデア
第三節 絶対無の自覚とイデア
(一)行為的自己と表現的自己の相即関係
(二)事実とイデア
第二章 西田哲学とフッサールの現象学
第一節 西田のフッサール批判
(一)フッサールとの出会い
(二)批判の二つの論点
第二節 現象学的還元と「自己を無にして見る」こと
(一)フッサールの現象学的還元
(二)無の自覚的限定の立場から見た意識の本質構造
(三)西田の自覚的形式から見た現象学的還元
第三節 西田における「叡智的なるもの」とフッサールの現象学的本質論
(一)フッサールの範疇的直観と本質直観
(二)西田における直観と思惟の関係
(三)西田の場所的自覚から見たフッサールの「本質」
第三章 西田とショーペンハウアー──美のイデアをめぐって
第一節 ショーペンハウアーの芸術論
(一)意志の形而上学におけるイデア論
(二)イデアの認識としての芸術
(三)芸術のジャンルの問題
第二節 西田のイデア論
(一)西田の自覚思想の展開
(二)「叡智的なるもの」としてのイデア
第三節 行為的直観と美のイデア
(一)行為的自己と芸術的直観
(二)事実とイデアの関係と芸術的直観
第四章 行為的直観とムーセの時空構造──西田の無の自覚的限定の立場から
第一節 無の場所的自覚から見た時の構造
(一)無の自覚の基本構造
(二)自覚的意識面における時の成立
(三)絶対無の自覚的限定としての永遠の今
第二節 行為的直観とムーセ
(一)芸術活動と行為的直観
(二)表現的自己の自覚とムーセの時空間
第五章 永遠の今──西田幾多郎と九鬼周造
第一節 無の自覚的限定における「永遠の今」
(一)推論式的一般者をもとにした時間論と絶対的現在の自己限定
(二)私と汝の成立の場としての「永遠の今の自己限定」
第二節 九鬼の偶然性の形而上学における「永遠の今」
(一)現象学的時間と形而上学的時間
(二)回帰的形而上学的時間の倫理的意味
補論一 九鬼と形而上学の問題
第一節 偶然性の問題の形而上学的展望
第二節 存在相の諸関係と偶然性の意味
第三節 偶然的存在と形而上学的時間
第四節 形而上的絶対者と原始偶然
第五節 形而上学的思索の仮想性
第六章 存在の悲哀と無の慈しみ──自覚的経験から見た根本気分
第一節 西田の意識論の根本特徴
第二節 西田の自覚の立場から見た「情態性」としての「気分」
(一)自覚的形式における「内に有ること」の位置
(二)ハイデガーと西田の立場の相違
(三)ハイデガー批判の二つの論点
(四)情意的なるものにおける身体性の意義
第三節 思索の根本気分としての悲哀
(一)自愛的自己の喜びと悲しみ
(二)生の根本矛盾と悲哀の行為的実践的意味
第七章 ハイデガーと日本の哲学──西田のハイデガー批判
第一節 ハイデガーの最初の受容
第二節 西田のハイデガー批判
第三節 事実と自覚
第四節 被解釈性と伝統の解体
第五節 解釈学的現象学か弁証法か
補論二 ハイデガーと東アジアの対話
第一節 ハイデガーと東アジアの対話の可能性
(一)対話に潜在する危険
(二)言語の源泉への問い
(三)解釈学的関連と言葉の本質
(四)言語の源泉と対話における「こと」の実現
第二節 ハイデガーと老子
(一)老子を翻訳する試み
(二)「存在の空け開け」(Lichtung des Seins)と「道」(Tao)
補論三 経験の直接性と言語
第一節 経験の直接性と言語の問題
第二節 言語と経験の切り離しえない関係
第三節 ヘーゲルの言語理解
第四節 根源語とその分節
第五節 言語活動の創造的性格
第六節 経験の言語と言語経験
第二部 コンテクストの中の田辺哲学──田辺の基本思想の展開
第八章 初期田辺の反省理論──西田批判の背景にあるもの
第一節 田辺の西田批判
第二節 意識一般のアプリオリと先験心理学
第三節 論理的なるものの本質としての具体的普遍
第四節 絶対意志の立場からの直観と反省の関係──反省作用の三つの段階
(一)定立的反省
(二)還元的反省
(三)絶対的反省(創造的反省)
第九章 中期田辺の根本洞察──絶対弁証法の成立
第一節 田辺の最初の弁証法理解
(一)弁証法の四つの特色
(二)論理一般の本性としての総合性と否定性
(三)ヘーゲル弁証法の実在性と発出性の由来
第二節 歴史における行為的実践の位置づけと弁証法的自由のジレンマ
第三節 絶対無の行為的自覚と絶対弁証法
(一)反省概念としての絶対自覚と身体性の弁証法的意義
(二)絶対無の弁証法と目的論的反省
第一〇章 田辺の後期哲学における歴史主義
第一節 田辺の行為的直観批判
(一)西田の行為的直観の思想
(二)行為的直観批判の四つの視点
(三)数理の歴史主義の立場からの批判
(四)西田の行為的直観に対する田辺の無理解
第二節 位相学の歴史主義的な展開と田辺の比論的思索の可能性
(一)田辺後期哲学の歴史主義
(二)位相学の歴史主義の比論的理解
(三)比論的思索の可能性と限界
おわりに
索 引
第一部 コンテクストの中の西田哲学
第一章 西田の場所の思想における叡智的なるもの
第一節 場所の思想における「叡智的なるもの」の位置づけ
(一)プラトンのイデア論
(二)西田の場所の概念
(三)一般者の自覚的体系
第二節 「叡智的なるもの」の基本性格
(一)西田の立場から見た種々の哲学
(二)ノエシス的限定の構造と行為的自己の立場から見たイデア
第三節 絶対無の自覚とイデア
(一)行為的自己と表現的自己の相即関係
(二)事実とイデア
第二章 西田哲学とフッサールの現象学
第一節 西田のフッサール批判
(一)フッサールとの出会い
(二)批判の二つの論点
第二節 現象学的還元と「自己を無にして見る」こと
(一)フッサールの現象学的還元
(二)無の自覚的限定の立場から見た意識の本質構造
(三)西田の自覚的形式から見た現象学的還元
第三節 西田における「叡智的なるもの」とフッサールの現象学的本質論
(一)フッサールの範疇的直観と本質直観
(二)西田における直観と思惟の関係
(三)西田の場所的自覚から見たフッサールの「本質」
第三章 西田とショーペンハウアー──美のイデアをめぐって
第一節 ショーペンハウアーの芸術論
(一)意志の形而上学におけるイデア論
(二)イデアの認識としての芸術
(三)芸術のジャンルの問題
第二節 西田のイデア論
(一)西田の自覚思想の展開
(二)「叡智的なるもの」としてのイデア
第三節 行為的直観と美のイデア
(一)行為的自己と芸術的直観
(二)事実とイデアの関係と芸術的直観
第四章 行為的直観とムーセの時空構造──西田の無の自覚的限定の立場から
第一節 無の場所的自覚から見た時の構造
(一)無の自覚の基本構造
(二)自覚的意識面における時の成立
(三)絶対無の自覚的限定としての永遠の今
第二節 行為的直観とムーセ
(一)芸術活動と行為的直観
(二)表現的自己の自覚とムーセの時空間
第五章 永遠の今──西田幾多郎と九鬼周造
第一節 無の自覚的限定における「永遠の今」
(一)推論式的一般者をもとにした時間論と絶対的現在の自己限定
(二)私と汝の成立の場としての「永遠の今の自己限定」
第二節 九鬼の偶然性の形而上学における「永遠の今」
(一)現象学的時間と形而上学的時間
(二)回帰的形而上学的時間の倫理的意味
補論一 九鬼と形而上学の問題
第一節 偶然性の問題の形而上学的展望
第二節 存在相の諸関係と偶然性の意味
第三節 偶然的存在と形而上学的時間
第四節 形而上的絶対者と原始偶然
第五節 形而上学的思索の仮想性
第六章 存在の悲哀と無の慈しみ──自覚的経験から見た根本気分
第一節 西田の意識論の根本特徴
第二節 西田の自覚の立場から見た「情態性」としての「気分」
(一)自覚的形式における「内に有ること」の位置
(二)ハイデガーと西田の立場の相違
(三)ハイデガー批判の二つの論点
(四)情意的なるものにおける身体性の意義
第三節 思索の根本気分としての悲哀
(一)自愛的自己の喜びと悲しみ
(二)生の根本矛盾と悲哀の行為的実践的意味
第七章 ハイデガーと日本の哲学──西田のハイデガー批判
第一節 ハイデガーの最初の受容
第二節 西田のハイデガー批判
第三節 事実と自覚
第四節 被解釈性と伝統の解体
第五節 解釈学的現象学か弁証法か
補論二 ハイデガーと東アジアの対話
第一節 ハイデガーと東アジアの対話の可能性
(一)対話に潜在する危険
(二)言語の源泉への問い
(三)解釈学的関連と言葉の本質
(四)言語の源泉と対話における「こと」の実現
第二節 ハイデガーと老子
(一)老子を翻訳する試み
(二)「存在の空け開け」(Lichtung des Seins)と「道」(Tao)
補論三 経験の直接性と言語
第一節 経験の直接性と言語の問題
第二節 言語と経験の切り離しえない関係
第三節 ヘーゲルの言語理解
第四節 根源語とその分節
第五節 言語活動の創造的性格
第六節 経験の言語と言語経験
第二部 コンテクストの中の田辺哲学──田辺の基本思想の展開
第八章 初期田辺の反省理論──西田批判の背景にあるもの
第一節 田辺の西田批判
第二節 意識一般のアプリオリと先験心理学
第三節 論理的なるものの本質としての具体的普遍
第四節 絶対意志の立場からの直観と反省の関係──反省作用の三つの段階
(一)定立的反省
(二)還元的反省
(三)絶対的反省(創造的反省)
第九章 中期田辺の根本洞察──絶対弁証法の成立
第一節 田辺の最初の弁証法理解
(一)弁証法の四つの特色
(二)論理一般の本性としての総合性と否定性
(三)ヘーゲル弁証法の実在性と発出性の由来
第二節 歴史における行為的実践の位置づけと弁証法的自由のジレンマ
第三節 絶対無の行為的自覚と絶対弁証法
(一)反省概念としての絶対自覚と身体性の弁証法的意義
(二)絶対無の弁証法と目的論的反省
第一〇章 田辺の後期哲学における歴史主義
第一節 田辺の行為的直観批判
(一)西田の行為的直観の思想
(二)行為的直観批判の四つの視点
(三)数理の歴史主義の立場からの批判
(四)西田の行為的直観に対する田辺の無理解
第二節 位相学の歴史主義的な展開と田辺の比論的思索の可能性
(一)田辺後期哲学の歴史主義
(二)位相学の歴史主義の比論的理解
(三)比論的思索の可能性と限界
おわりに
索 引